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2020年度 中学校卒業式 校長式辞

2021年03月15日

「仲間と共に」~116年変わらぬ伝統~2

 

前略

諸君、中学卒業、おめでとう。君たちは、この混沌として激変する時代の極めて厳しい難問に、自ら道を拓く開拓者、すなわちパイオニアとして、また、果敢に挑戦するチャレンジャーとして、この盈進に入学した。そして、その名にふさわしく活躍し、いま、ここにある。

パイオニアもチャレンジャーも、未知なる自分の「可能性」への開拓者であり、挑戦者であるということも、いま改めて、胸に刻んでほしい。

 

君たちの「修了論文」。盈進生の存在意義である。

校長として、君たちに言い続けてきたこと。それは「どう生きるか」という哲学を身につけるために「本を読もう」。その修了論文は、本がなければはじまらない。

また、私は常に、「仲間と共に、自分で考え、自分で行動する」という「盈進共育」を発信してきたが、修了論文は、それをもっとも端的に表現する実践である。

修了論文に、すべての学力の土台となる「豊かな言語力」を見ることができる。これぞ盈進生である。読書科や修了論文などで身につけた「豊かな言語力」は「生きる力」である。それは必ず、難関大学進学の突破力にもなるし、その後、君たちが、より強く、より知的に、よりしなやかに、より輝いて生きていく力になると、私は確信している。

最優秀賞の佐藤文香さんは、考察の過程をこう語る。「私の論文のテーマは『肥満』だったが、脂肪から摂食障害まで関連を広げて本を読み、論考した」と。ひとつの疑問や課題を探究するには、光を分散、屈折、反射させるプリズムのように、多面的な視野を養うことが大切であると教えてくれている。

 

今日は君たちの先輩の話をする。テーマを、「仲間と共に、自分で考え、自分で行動する」~言葉の大切さ~とする。

主人公は山本真帆さん。祖父、父、娘、親子3代にわたって盈進で学んだ。2013年に本校卒業。慶應義塾大学に学び1年間、ドイツ留学。英語とドイツ語を身につけ、選んだ職業は新聞記者。現在、中国新聞、期待の若手記者として活躍している。先日も、社会面に、東日本大震災に関する大きな記事を書いていた。

地元紙の中国新聞を選んだ理由を、真帆さんはこう語った。

「自分を育ててくれた被爆地広島に帰って、もう一度自分の原点を固めたい」。

真帆さんは「小学生のころから図書館で本をたくさん読んだ」という。中学2年の時に書いた作文にうなり、私は彼女にこう伝えた。「言葉で人に寄り添い、励ます、そんな職業がいいと思う」。;

昨日は「3.11」。君たちは5歳だった。10年前の春、真帆さんも地震、津波、原発事故に言葉を失った。盈進は、理事長先生の信念から「これからもずっと被災者の方々と共にある」と宣言し、学園あげて、支援と交流の方針を打ち出した。真帆さんは、福島の詩人、和合亮一の詩を読み「東北は私」「福島は私」と、深く意識し、被災地を自分に重ねた。

10年前の6月。真帆さんは、東北の被災地へボランティアに行った5人の体験談を聞く学習会を開いた。すべて尊い体験談だったが、真帆さんに疑問がわいた。「どうして福島へは行かなかったのか」と。真帆さんの質問にボランティアのひとりが返した。「どうしてこの質問をしたのか」と。真帆さんの答えはこうだった。「広島の人間として核廃絶を望む私は、放射能被害に苦しむ福島に行きたい」と。ボランティアが答えた。「高校生は福島に行かない方がいい」。

福島の放射線被害の実態把握は10年前のそのころはまだ、かなり不正確だったので、多くの人々は、その得体の知れなさにたじろいでいた。

学習会の後、真帆さんがつぶやいた。「福島にも、わたしと同じ高校生がいる。体が不自由なお年寄りだって、障がいのある人だって暮らしている」。

数日後、真帆さんが私に新聞記事を持ってきた。事故を起こした福島第一原発から近い飯舘村の老人介護施設に暮らすひとりの老人。脳梗塞で倒れた後、ほぼ寝たきりの生活をしている大内佐一さんの記事だった。

大内佐一さんは1945年8月6日当時、旧日本海軍の衛生兵として広島にいたので、原爆の残留放射線を浴び、被爆者となった。それから66年後の2011年3月、郷里の福島で、人生二度目の放射線被害にあって、家族と離れ離れで暮らしているという記事だった。真帆さんが私に小声で訴えた。「福島に行って、佐一さんに会いたい」。

7月下旬、震災から4ケ月後、真帆さんは仲間と福島にいた。私と数名の教員が、自家用車で連れて行った。理事長先生は、生徒たちの自主性を尊重し、経済的にも応援してくださった。

人生二度目の放射線被害を受けた大内佐一さん。息子の秀一さんが、真帆さんたちの訪問を喜んでくださり、父、佐一さんを飯舘村の老人施設から、避難先の家に連れてきてくださった。

目を閉じて車いすに乗っていた大内佐一さんと対面。真帆さんは手を握り、佐一さんの耳元で、少し微笑み、ゆっくり話しかけた。それが、どんな言葉だったか。

この言葉に、大内家みんなが胸を打たれたという。家族の一人が後に、この時のようすを、福島の地元紙に投稿して掲載された。その言葉とは・・・

直前に、ご家族から、「父、佐一は、脳梗塞で、なかなか言葉が出ないんですよ」と知らされていた真帆さんが、とっさに選んだ言葉…

「佐一さん、広島から来た山本真帆と申します。私はいま、佐一さんにお会いできてとてもうれしいですが、佐一さんはうれしいですか」。佐一さんの目からじんわり涙がにじみ出て、声を振り絞って、こんな言葉が聞こえた。「とってもうれしいです」

真帆さんは「私はうれしいですが、佐一さんはどうですか」とは聞かなかった。「佐一さんはうれしいですか」と聞いた。言葉が出にくい佐一さんに、言葉選びを強いらず「うれしいかどうか」、答えやすい問いを選んだ。ご家族は「久しぶりに父、佐一の声を聴いた」と喜ばれた。

ノンフィクション作家の佐野眞一さんは、福島の詩人、和合亮一さんとの対談集『3.11を越えて~言葉に何ができるか』という本の前書きにこう記している。「今回の大災害は、これまで通用してきたほとんどの言葉を無力化させた。…それでもなお生き残る言葉があるとすれば、それこそがこの大災害後にも通用する本物の言葉である」と。

「この未曽有の大災害は、目の前で起きた悪夢のような出来事に『言葉を失う』体験をした人びとの身の上を思いやる想像力の有無を…すべての人に問うている。もし、その想像力が…損なわれているとするなら、それは被災地に広がる瓦礫以上に深刻な精神の瓦礫といわなければならない」と。

わたしは今も、真帆さんが選んだ言葉が、「他者と共に生きる」ための本物のことばであったと信じている。そうであったがゆえに、それから10年間、大内家と本校はずっとつながっている。

山本真帆さんが、本や新聞を読み、常に仲間と共に、自ら考え、自ら行動する意味を教えてくれている。

 

わたしたちはいま、「人類生存の危機」ということばも、大げさではない激変の時代にある。

ならば、未来は、君たちにこそ、託されている。

だから、激変する社会を生き抜くための哲学を身につけるために本を読んでほしいし、「仲間と共に、自分で考え、自分で行動する」ことがますます、求められる。

米中の覇権争いは言うまでもなく、香港やミャンマーの民主化問題も、難民問題も、核の問題も、子どもの貧困も、3・11後10年のこの国のありようもすべて、わたしたちの日々の暮らしと結びついている。わたしたちは常に、当事者なのである。

私たちは、いま、隣に座っている人と、地域の人々と、世界中の人々と「共に生きる」ために生きていると、私は思っている。激変の時代だからこそ、「共に生きる」視点を失ってはならない。

伝統校、わが私学盈進の合言葉は116年間、ずっと変わらず「仲間と共に」。それは、「共に生きる」とまったく同じ意味である。仲間との絆を大切にしてきたからこそ、116年の歴史が紡がれ、わが盈進はここにある。

 

諸君。次の高校3年間で、新たに加わる仲間も交えて、さらに固い友情を育み、新しい盈進の歴史と伝統を築いてくれることを大いに期待する。「盈進、盈進、ほこれよ盈進」。建学の精神「実学の体得」~社会に貢献する人材になる~ために、新時代を築くパイオニアとして、チャレンジャーとして、常に努力を惜しんではならない。

 

2021年(令和3年)3月12日 盈進中学高等学校 校長 延 和聰(のぶ かずとし)

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