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2021年度 卒業式 校長式辞      

2022年02月27日

2021年度 卒業式 校長式辞

「仲間と共に」~117年変わらぬ伝統~

 

前略 卒業生諸君、卒業、おめでとう。別れは、本当にさびしい。

……それは何か。「日々の何気ない普通」がとても大切であるということではないか。

毎日、学校に通えるということ。学校に仲間がいるということ。「おはよう」とか「また明日ね」と言い合える仲間がいること。家に帰れば、家族がいるということ。「行ってらっしゃい」や「おかえり」という声がいつものように聞ける家族があるということ。遠く離れていてもいつも自分のために働いてくれる父や母がいるということ。

このような「日々の何気ない普通」がいかに尊くて、大切なものであったか。そんなことに、わたしたちはいやおうなく気づかされたのではないだろうか。

そして、「日々の何気ない普通」を尊いと感じる中で、自分の存在が「他者によって支えられている」、そして、自分のいのちが「他者によって生かされている」と、誰もが実感したのではないだろうか。

 

「利他」ということばを聞いたことがあるだろうか。「利益」の利に「他人」の他で「利他」。

その対義語は「利己」。「利益」の利に「自分」を意味する「己」と書いて「利己」。

利己主義とは、自分の利益を優先するという意味であるから「自分勝手」や「わがまま」を表すことばである。では、その対義語の「利他」とはどんな意味か。「利己」の逆であるから、「自分の利益よりも他者を優先する考え方のこと」あるいは「他人への思いやりを大切にすること」などとなるだろう。

コロナ禍のいま、この「利他」という考え方が注目されている。今日の私の話のテーマでもある。

 

わたしが最近、興味深く読んだ一冊。『思いがけず利他』というこの本。わたしが注目している東京工業大学の中島岳志先生の本。わたしは彼の著作や論文を意識的に読んでいる。

中島先生が務める東京工業大学は一般的に「東工大」と呼ばれ、東京大学や京都大学に匹敵するとても教科学力の高い学生が集まる大学としても有名だ。その東工大には「リベラルアーツ研究所 / 未来の人類研究センター」という学問所が設置されている。中島先生はそこの教授で学生たちと「利他」について研究している。「利他学」という学問だ。

東工大は理科系の大学である。ではなぜ、理科系大学に人文社会学系の「未来の人類研究センター」があるか。例えば水俣病の問題を想起してみる。水俣病はチッソという主に化学肥料を製造する会社から熊本の水俣湾に垂れ流された有機水銀によって引き起こされた公害事件である。チッソという大会社が水俣という小さな町にあることで町の経済は潤ったが、その裏で水俣病によって人間のいのちや健康や自由が侵された。水俣病の問題は、日本の経済が高度な成長を遂げたその影で、人類の尊厳が踏みにじられてきたことの象徴としてある。換言すれば、高度な科学や学問が人類を不幸にしたという教訓でもある。実際に東工大の学生は水俣病の学習をしているが、それは将来、日本のみならず世界の産業の最先端を担っていく東工大の学生たちが、水俣病の問題から人類のいのちの尊厳を学ぶことによって、自分たちの学問をどう、社会や人類の幸福のために使うかを考えるということが目的なのである。

中島先生はこの本の中で、東工大大学院生の修士論文を紹介している。すでに誰もが避けては通れない超高齢化社会にある認知症の問題がテーマである。認知症の方には「介護保険法」という法律によって原則、ひもや帯などによる身体的な拘束は禁じられている。しかし、夜に徘徊などをして事故の危険性があるなどの場合、つまり、拘束しなければその人のいのちが守れないと判断された場合には帯でベッドに縛ったりするなどの必要最低限の身体的な拘束が認められている。

ここで問題とぶつかる。「利己か利他か」。考えるに、認知症の方への身体的拘束は、見守る家族にとっては何を意味するか。身体的拘束は、できれば、本人の自由のためにはしたくない。だが、本人のいのちためにはしなくてはならない。それらの選択は、果たしてどちらが利己で、どちらが利他か。なかなか難しい問いであろう。実に悩ましい。

だから、東工大大学院生は「利他」をキーワードに、実践的に現場に入って観察して研究を深めた。その現場とは……。認知症の方々が店のフロアを担う「注文をまちがえる料理店」。「ちばる食堂」という名の、ごく普通の沖縄料理店なのだが、お客は、店に入って、メニューに書いてある注意書きと働いている人の姿を見て真相を知ることになる。「ちばる食堂」は、福祉目的の食堂ではない。普通の食堂で、注文していない料理が出てきても、客側がそれを受け入れることで成り立っている。認知症の方々は労働による賃金を得ることができ、客側は間違いに寛容であることの大切さをそこで学ぶ。

この東工大院生の修士論文は「認知症ケアと社会的包摂~注文をまちがえる料理店の事例から~」というタイトルで、中島先生は修士論文として高く評価している。間違いに寛容であること、困難さを生きている人々に対する包摂は、普通の日々の中での「思いがけずに『利他』」であり、この考え方と感性に、困難を切り拓く答えがあるのではないかという評価である。

 

話を前段に戻そう。仲間と交わす「おはよう」や「また明日」。家族の言う「行ってらっしゃい」や「おかえり」のこと。つまり「日々の何気ない普通」のこと。

君たちの仲間や家族。その「日々の何気ない普通」のことばや態度はすべて、君たちの幸せを願う無償の「利他」であったに違いない。だからわたしはいま、この危機の時代にあって、「日々の何気ない普通」の「利他」を信じたいと思う。「普通」こそ最も大切で、その日常の中の「利他」の視点にこそ、対立や分断を超えるためのヒントがあるのではないかと考えるからである。

コロナが世界を覆う日々。米中の覇権争い。アフガニスタン市民のタリバン支配による苦難。香港の民主化統制、ミャンマーの圧政など。世界のあちこちで独裁者たちが人権と平和を侵害し、民主主義を踏みにじっている。そして、難民問題も、子どもの貧困も、もうすぐやってくる「3・11」後11年目のこの国のありようもすべて、わたしたちの日々の暮らしと結びついている。

そして、それらのすべては、「利己主義」では何も解決し得ないことは誰でも想像できる。だけど、わたしたちは常に、これらの問題の当事者なのであり、だからわたしたちは、この中にあって、「日々の何気ない普通」の「利他」を信じるべきなのだと、わたしは思う。

 

わたしはいま、利己主義の極みとも言うべきロシアのウクライナ侵攻と、プーチン大統領の「ロシアは世界で最も強力な核大国の一つだ」という発言、つまり、核を脅しの道具にする発言に、被爆地広島に暮らすひとりとして怒りを禁じ得ない。わが日本は、戦争放棄をうたう憲法に則り、世界の平和秩序の維持と回復に貢献しなければならないと考える。

そしていま、「日々の何気ない普通」が侵されたウクライナ市民の苦痛に胸を痛める。されば、君たちも学習したであろう谷川俊太郎の「朝のリレー」という詩から一部をひいてみる。

カムチャッカの若者が きりんの夢を見ているとき(中略) メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている(中略) この地球では いつもどこかで朝がはじまっている ぼくらは朝をリレーするのだ  経度から経度へと  そうしていわば交替で地球を守る

「カムチャッカ」はロシア連邦の一部だが、カムチャッカをモスクワやキエフに置き換えてみることもできる。

現在と未来は、君たちに託されている。だから、盈進共育「仲間と共に、自分で考え、自分で行動する」ことがますます、求められる。そして、激変する社会を生き抜くための哲学を身につけることも、時代が求めている。そのために本を読み、勉強し続け、自ら心と教養を耕してほしいと願う。

「耕す」は、英語でカルチベート。そう、カルチャーの語源。つまり、生きるとは、他者と共に、自ら文化を創造するということに他ならない。激変の時代だからこそ、多様性(=違いを認めること)と包摂(=間違いを許すこと)は必須条件であり、そのもとで、他者と「共に生きる」視点を失ってはならない。

 

伝統校、わが私学盈進の合言葉は、建学の精神にのっとり117年間、ずっと変わらず「仲間と共に」。

それは、「共に生きる」とまったく同じ意味である。仲間との絆を大切にしてきたからこそ、117年の歴史が紡がれ、わが盈進はここにある。

諸君。盈進を離れ、苦しかったり、悲しかったりしたときこそ、“盈進”で結ばれたかけがえのない仲間たちと語り合い、支え合ってほしいと願う。それがまた、盈進の歴史と伝統をより強固にするのだと確信する。

これからがまさに、「盈進、盈進、ほこれよ盈進」、その本番である。

どうか、利他の視点を忘れず、いのちとこころと健康を何よりも大事にしてほしいと切に願い、式辞とします。

 

2022年(令和4年)2月27日 盈進中学高等学校 校長 延 和聰(のぶ かずとし)

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