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2022年度 2学期「終業のことば(校長)」

2022年12月22日

2学期 終業のことば(校長)

 

コロナは、いまから約3年前の2019年12月初旬、中国の武漢で第1例目の感染者が報告されてから、瞬く間に世界的流行となった。それからすでに3年が経った。

コロナとその影響で学校を休まなければならない仲間がたくさんいる中での2学期終業式となった。いまも毎日、新規感染者数、死亡者数が発表されている。まず、その人々および、ウクライナの戦禍やその影響で亡くなっている人々に心を寄せ、心静かに1分間の黙祷を捧げつつ、心を落ち着けてこの一年を振り返ることとしよう。黙祷。

 

最初に6年生諸君へ。「君たちこそ新校舎と共に“新しい盈進の歴史”をつくってきた先頭集団である」と1学期の終業式で述べた。夏、硬式野球部が48年ぶりの甲子園出場。そのとおり“新しい歴史”をつくった。中学生による高校3年の全28人硬式野球部員へのインタビューに立ち会った。甲子園への切符を手にした強さは、まさに盈進共育「仲間と共に、自分で考え、自分で行動する」という精神にあるということを確信した。かつて高校球児だったわたしも、すべての部員の発言にあった仲間への信頼と、仲間の中で切磋琢磨、自主的かつ主体的に「地道に準備し、地道に努力する」姿に学んだ。

6年生諸君。進路決定(受験)は決してあきらめてはならない。創立記念式典で述べたように「地道に準備し、地道に努力する」先に必ず道は拓けるのだから。

 

諸君、どんな2学期だっただろうか?学級閉鎖もあった。そんな中でも、諸君の努力と保護者のご協力で「できるだけ通常の生活」を維持してきた。9月、来客制限は設けたものの3年ぶりに感謝祭を開催できた。生徒諸君の創意工夫に心躍った。教職員のサポートにも感謝する。感謝祭は、地域に支えられてきた118年の伝統を誇る本校にしかできない独自の文化であり、その歴史と伝統に対し、感謝の心でおもてなしをする行事であることを改めて感じた。来年はさらに、仲間と対話を繰り返しながら、より時代を見すえたものとなるようにアイディアを共有し、知恵と工夫を凝らしてクオリティーを上げてほしい。生徒全員がiPadを駆使して、学校の隅々にまでICTを完備している本校校舎を存分に活用することをもっと意識してほしい。

11月、3年生の「Career in  Kyoto」も3年ぶりに再開した。提携校である京都外国語大学の世界各国から集まった留学生たちとの交流。「めっちゃ楽しかった!」と言う3年生がまぶしかった。同志社大学や立命館大学に通う先輩の声に真剣に耳を傾ける3年生が頼もしかった。今月、2年生と3年生が待ちに待った沖縄へ学習旅行に行った。コロナの影響で提携している沖縄尚学の生徒との交流はかなわなかったが、沖縄の空気を全身で浴びた生徒諸君の笑顔が沖縄の太陽のように照り輝いていた。集団自決(強制集団死)に象徴されるが、「ありとあらゆる地獄を集めた地上戦」と表現される沖縄戦の実相およびそこから現在の米軍基地問題へと続く歴史の連続性から現代社会を見つめた。自然体験で、沖縄の自然の奥深い豊かさを感じた。読谷村での民泊では沖縄の伝統を重んじる沖縄の人々(ウチナーンチュ)の人情に触れて、コロナで疲れて、痛んでいた心が少し、回復したようだった。

年末に際して若干、ことしを回顧する。サッカーW杯については後に述べる。2022年がロシア軍のウクライナ侵攻の年として記憶されることは間違いない。2023年に終結するとの楽観的な展望はすでに退けられている。わたしたち人類は否応なく、核戦争の脅威に関心を持たざるを得なくなった。

国内政治に目を転じれば7月、安倍晋三元首相の銃撃事件が浮かび上がる。衝撃の波紋は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の政治問題となり、安倍元首相の国葬の是非にまで及んだ。それに関与した閣僚の相次ぐ辞任を招き、岸田内閣の政治運営が大きく揺らいだ。その中で先般、安全保障政策(日本の防衛政策)が大きく転換した。

憲法第9条基づき、自衛隊は「専守防衛」を明言してきた。つまり、相手が攻撃してこない限り、日本は相手を攻撃しないということである。しかし、岸田政権は16日の閣議決定で、安全保障の文書に、(自衛隊は)相手のミサイル発射前でも、相手の攻撃着手を確認すれば、相手領土を攻撃できるとし、長射程ミサイルで相手のミサイル拠点などをたたく「敵基地攻撃能力」(反撃能力)を保有すると明記した。そうすることによって、相手が日本を攻撃することをためらう「抑止」になると政府は説明する。

中国新聞の社説は「平和憲法をゆがめるな」と題して、次のように主張した。「抑止は万能ではない。米国の戦争に巻き込まれることやミサイル発射の報復への懸念は尽きない。各地に立地する原発も標的にされかねない。敵基地攻撃能力の保有が『もろ刃の剣』(つるぎ)になるリスクは語られず、議論が圧倒的に足りない」「国民の理解と合意を欠いたままの防衛力強化に突き進むことは許されない。平和国家の岐路である。まずは国会で徹底的に議論すべきだ」と。

3年前、アフガニスタンで殺された医師の中村哲さん。干ばつによる食糧難や疫病にあえぐ人々を救うべく、その人々と共に、医者自ら井戸を掘り、重機を操って堀を巡らせ、大地を豊かにしてアフガンに希望の種をまいていた。その中村哲さんは生前、こんなことばを遺している。「平和には戦争以上の努力と忍耐が必要なんです」と。その中村哲さんが今回の閣議決定を知ったら、なんとコメントしただろうか、とわたしはしばらく考えた。

わたしは思う。こんな時代だからこそ、平和の価値を改めて訴える必要があると。平和への願いは決して情緒的な現実逃避ではない。平和が必要なのはそれが、国家統治のコストを大きく減らすからなのだ。戦争による破壊と死、そして連鎖する苦痛。一旦戦争が始まれば終結へ向かうのに計り知れない莫大な努力が必要だということは、現在のウクライナ情勢を見ても理解できるだろう。また、終結したとしても、戦争によって痛んだ国を回復するのにいったい、どれだけの時間と労力と費用がかかるか。被爆地広島・長崎だけでなく、戦争で傷を負った人はみな、現在も過去の悪夢にさいなまれているではないか。わたしは専門とする歴史学を通して、「外交とは対話である」と学んできたが、政府には「面倒でも対話」をする努力を期待する。

 

きょうは、1学期のテーマ「面倒でも対話を」をベースに「目的と目標を分けて考える」をテーマとして話をする。

サッカーW杯カタール大会。「うら」と「おもて」の両方を見る。

カタールは、人口300万人弱の小さな国。その国に、収容人数約10万人規模のスタジアムが今回、新たに7つ建設された。降雨がない酷暑の地で天然芝のグラウンドを維持し、試合をするためにいったいどれだけの資源が使われ、二酸化炭素が排出されたか。スタジアムの完成までに6000人以上の外国人労働者が死亡したとも聞く。

日本とドイツの試合の前、ドイツ選手が右手で口を覆うパフォーマンスをした。多様性や差別撤廃を訴えるキャプテンマークの着用をFIFA(国際サッカー連盟)が認めなかったことに対する抗議だった。その瞬間、カタールが抱える諸問題への関心が高まった。だが、試合後には、「そんなことをするから負けるんだ」とドイツ選手の抗議をバカにする日本サポーターの発言がSNS上に広がったと聞く。わたしはそれを恥ずかしく、また情けない言動だと思う。

次に「おもて」。日本代表の活躍に目を移す。ワールドカップ出場がかなわなかった「ドーハの悲劇」から約30年が経過した今大会。「ドーハの悲劇」を直接、味わった選手の中に森保一がいた。その森保一監督率いる日本代表選手たちが「ドーハの歓喜」に歴史を塗り替えた。

今回、日本代表選手を見ていて、この30年で「みごとに変わったな」と思うことがあった。体力、海外の経験、スピード、シュート力等々……それはさまざまであろう。だが、「決定的に違う」と、わたしが思うこと。それは何か。諸君は何だと思うか?

それは「ことば」だ。明らかにインタビューの受け答えの中身が濃い。語彙力が増している。「いつ、だれが、どこで、何を、なぜ、どうした」が実に明確だ。そしてさらにすべての選手が、常にサポーターを意識して「ことば」を発していた、とわたしは思った。

これは日本サッカー協会の戦略だった。現日本サッカー協会会長の田嶋幸三さんはいまから16年前の2007年に、『言語技術が日本のサッカーを変える』という本を出版している。2学期に設置した「のbooks」の1冊だ。自らドイツに留学して、ワールドカップで優勝経験のあるドイツサッカーの強さは何か、つまり、日本との違いは何かを考え、彼はこう結論づけた。「日本の選手は監督やコーチから言われたことを忠実に守ることが美徳とされている。しかし、ドイツでは常に選手が、『なぜなのか』『どうすればできるか』を自ら考え、行動していたことを肌で感じた。その日常の中で鍛えられた選手たちの主体的な思考から繰り出される『ことば』がピッチの中でも生きている」と、田嶋は強烈に知ったのだ。攻撃にしても守りにしても、より的確なことばを瞬時に用いる選手同士の質の高い対話が強さの源なのだと。

田嶋は筑波大学の出身。筑波大学は「東京高等師範学校」後の「東京教育大学」が前身。昨日来校された広島平和文化センターの小泉崇理事長も東京教育大学の出身だ。筑波大学は現在、日本を代表する総合大学だが、もともとは教員養成の最高峰としてその基礎が築かれた。

教員をめざしていた田嶋は、筑波大学でサッカーに没頭しながらも、チームワークを重んじ、「仲間と共に、自分で考え、自分で行動する」習慣を身につけた。それが先ほど伝えたドイツ留学と、日本のサッカーを世界に通用するレベルに昇格させるための「言語技術」の習得に結びつく。田嶋の提言もあり、日本サッカー協会は、徹底的に選手の言語技術を鍛えるシステムを構築する。その環境で育ったのが現在の日本代表選手たちである。

スペイン戦で逆転弾を演出した決定的瞬間「三笘の1ミリ」にわたしもしびれた。その三苫薫選手は、田嶋の筑波大学の後輩である。三苫もまた、田嶋と同じく「仲間と共に、自分で考え、自分で行動」する選手だった。大学時代の三苫の探究心をわたしは『朝日中高生新聞』で知った。世界が認め世界が注目する三苫のドリブルはまさに探究心の賜(たまもの)なのだ。大学時代、三笘は全体練習後の1対1の自主練習を欠かすことがなかった。自分の長所を伸ばそうと「地道に準備し、地道に努力した」のだ。卒業論文は自身のドリブルを研究にすえた。自分の頭に小型カメラをつけて、相手との距離など、データを分析した。だからあの「三苫の1ミリ」が生まれたのだと、わたしは納得した。プロセスあっての結果である。良い結果のプロセスには必ず「地道な準備」と「地道な努力」があるとわたしは信じている。

きょうのテーマは「面倒でも対話を」をベースにした「目的と目標を分けて考える」である。田嶋や三苫の話と今回のテーマがどう連動するか。

今回、日本代表選手の口から何度も「子どもたちに勇気と希望を感じてほしい」と語られていた。そう、わたしはこれが彼らのサッカーをする目的なのだと思っている。目的を「志」と言い換えてもいい。三苫選手が、サッカー大好きな難病の子どもと約束し、ゴール後に両手でハートマークをつくって彼の心に希望の光をともした話を、わたしはNHKのニュース番組で知った。その目的、その志があって、三苫選手はそのために、仲間や自分と対話し、「誰よりもドリブル力を鍛える」という目標を決めた。またそのために、頭にカメラをつけて自分の動作を分析したのである。田嶋は「子どもたちに勇気と希望を」もたらすという目的(志)のために、ドイツや日本の仲間と対話し、あるいは自分と対話を繰り返し、日本のサッカーを世界に通用するようにしたいと目標を定め、そのために言語技術を導入したのだ。

その三笘選手や堂安選手など、日本代表選手が英語はもとより、多言語を駆使してインタビューに応じていたのも特徴的だとわたしは思う。サッカー界だけではなく、卓球やスキーなどでも英語や中国語など、多言語を駆使しながら世界の舞台で日本の選手が活躍している姿が目立つようになってきた。英語をはじめ、多言語の習得は、世界で活躍するスポーツ選手にとっては目的ではなく、自分の人間力や競技力を高めるために必要な目標であり手段なのである。

先ほど伝えた中村哲さんは、「アフガニスタンの人々の幸せ」を願った。その目的があって、アフガニスタンの人々と共に生きることを選び、自ら井戸を掘り、涸れた大地に緑を増やしていった。中村哲という医者が「たくさんのお金を儲けたいから」という私利私欲の目的で医者になったのであれば、彼にアフガニスタンで生きる選択はなかったと思う。

 

では諸君。なぜ毎日、英語を学習するのだろうか。考えてほしい。それが「よりレベルの高い大学に合格するため」ということが目的ならば、わたしは、やはり、目的としては「間違い」ではなかろうが、その本質ではないと思う。

諸君。わたしたちはなぜ、数学を学ぶのか。そのヒントは先般の「ホンモノ講座」講師、芳沢先生の教えに見出すことができるかもしれない。諸君および教職員のみなさん。同じように、なぜ、わたしたちは体育を、保健を、家庭科を、国語を、古典を、歴史を、政治経済を、地理を、化学を、生物を、物理を、地学を、音楽を、書道を、美術や創作を学ぶのだろうか。

もうひとつ。なぜ、あいさつが大切なのか。3学期始業式までのわたしからの「問え、悩め」である。

どうしてわたしが今回、このテーマにしたのか。それはこの本を知人に紹介され、読んで、なるほど、と思ったからだ。喜多川泰さんの『書斎の鍵~父が遺した「人生の奇跡」~』。

この中に、「書斎のすすめ~読書が人生の扉を開く~」という節が設けられている。書斎とは、「読書をしたり、書き物をしたりする部屋」のことだが、著者は、お風呂で汚れと疲れを取り除くのと同じように、ひとは、書斎で読書をして、「心の汚れ」を洗い流す必要があるのだと説く。そして、「読書で人生の夢が見えてくる」と言い、その理由をこう述べる。

「人生の目的(志)」があって初めて、「目標」がつくられるのです。……「私は、自分の人生を、人の命を救うことに使う」と志(目的)を立てた人が目標とするのは「医者」という場合が多いでしょうが、医者という目標を達成できなくとも、薬の研究開発で人の命を救うこともできるでしょうし、消防士として人の命を救うことだってできるでしょう。救急車の運転手として人の命を救うことだってできます。自分の人生の「目的」「志」が決まっていれば、たとえ「目標」が変わっても、「自分なんて意味がない」などと、自分を卑下することはありません。……志(目的)があれば人生で出会うどんな出来事も自分を磨く砥石になります。志(目的)がなければ、人生で出会う出来事をいるものといらないものに分け、無駄だと感じるものを切り捨てていくようになります。

この違いは一人の人生をまったく別のものにする大きな違いを生み出します。いい本との出会いには、自分の人生を何に使うべきかを自覚させる力があります。つまり、本を読む習慣が身につくと、自然と「志」が持てるようになります。読書は、「人生の目的」を強く自分の中に固持するために、最良の習慣と言えます。

 

わが盈進の建学の精神、すなわち、設立の目的は「実学の体得」(社会に貢献する人材の育成)である。そのための目標が盈進共育であり、「平和・ひと・環境を大切にする学び舎」であり、「自立、学び、貢献」なのである。

ウクライナ情勢もあって、政府は12月から7年ぶりの節電要請を行った。先般、エジプトで開かれていた「COP27」でも温暖化防止とあいまって特にウクライナ情勢を見すえた電源供給についても議論となった。それらはもはや、人類生存の問題である。誰一人として「他人ごと」ではすまされない。

先日、会員である私に、国連UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から「厳しい冬をしのぐために緊急支援」の要請(手紙と寄付の手続き等)があった。じっくり読み込んだ。ウクライナの人々およびアフガニスタンやシリア難民に毛布と暖房機器等を送る緊急支援である。彼ら彼女らにとっては、「寒さ即、死」なのだ。胸がえぐられる。ロシア軍がウクライナの発電所を攻撃し「冬の寒さを武器にする」という卑劣さに怒り心頭である。

同時に、わたしたちは2011年3月11日の東電福島第一原発事故の惨劇も忘れてはならない。わたしたちは等しく、その犠牲は誰が強いたのかという想像力を持たなければならないとわたしは思う。節電は地球に暮らすわたしたちすべての「共に生きる」ための義務なのだと思う。このような想像力と共感力こそ多様性の尊重の精神だとわたしは思う。常に「その電気は必要ですか」と問い、必要でなければ使わない。つけっぱなしにしない。「限りある資源」を常に意識し、実践すること。「誰か」ではなく「私が」という意識で実践すること。

北校舎(中学棟)2階の廊下に1年生から3年生までの読書感想文の入選作品が掲示してある。各クラスの賞、各ククラブの賞もある。校長賞も選んだ。力作が多い。選考に悩む時間が年々増している。この読書感想文についても3学期の始業式で述べる。クラブで読書感想文を書くという取り組みに期待している。校長賞は出す。読むことは悩むこと。書くことは考えること。ことばに磨きがかかれば、クラブの戦績、実績だって高くなる。野球部が証明したではないか。それは、サッカー日本代表の活躍と同次元のことである。

 

最後に。先般、英字新聞にこんな記事を見つけて心を奪われた。何かを言い訳にしてやらない自分を恥ずかしく思った。学ぶ時間、学ぶ環境を整えられているわたしたち。99歳で亡くなった小学生に学ぼう。フランスでは映画になって公開されるそうである。

「Gogo Priscilla, world’s oldest pupil,dies in Kenya aged 99」

I wanted to show an example not only to them but to other girls around the world who are not in school. ……She said. Education is your future. Education remains in your head forever and you cannot lose it once you have it.

彼女(ゴゴ・プリシア)は、貧しさ故に学校に行けず、文字も書けなかった。彼女が90歳を過ぎて小学校で学んだ理由。彼女は言う。いまも世界中にいる自分と同じように学校に通えない女の子たちの模範となって、希望を示したかったのだと。つまりそれが目的(志)。教育こそ、未来だと彼女は信じていた。わたしもそう思う。終わります。

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